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常善寺

常善寺からのひとこと

銀杏の木

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常善寺だより

境内の銀杏の木から、今年も実が落ちはじめました。銀杏とお寺、その関係を少しお話ししたいと思います。

昔の僧侶は、托鉢や旅の際、銀杏の実を保存食にしたとも伝えられています。
また、葉が扇の形をしていることから、「智慧をひろげる」「煩悩をあおいで払う」という象徴的な意味もありました。

さらに銀杏の葉は、二つに分かれて一つになる独特の形をしています。
この形が「不二(ふに)」つまり、対立して見えるものが、実はひとつにつながっているという仏教の考えを表しているとも言われます。

右と左、陰と陽、生と死。
すべては一つのいのちの流れの中にある。
銀杏の葉は、それを静かに語っているようです。

また、銀杏は二億年以上も姿を変えずに生き続けてきた「生きている化石」と呼ばれています。
戦火にも耐え、枯れずに再生するその生命力の強さから、「不滅」「永遠」「再生」の象徴として、多くの寺院に植えられてきました。
広島の爆心地近くの寺院にも、被爆しながら芽を吹いた銀杏が今も残り、「平和の木」として人々に希望を伝えています。

このところ急に風が冷たくなり、あの暑かった夏が遠く感じられるようになりました。
やがて境内の銀杏の葉も黄金色に染まり、静かに舞い散る季節を迎えます。
散りゆく葉のひとひらひとひらに、季節のうつろいといのちの流れを感じながら、静かな秋の日を過ごしたいと思います。

人の言葉や態度に心を乱されることは、私たちの日常にたびたびあります。
「あの人はどう思っているのだろう」「なぜあんなことを言うのだろう」気づけば、他人の心ばかりを探っている自分がいます。

しかし、毎田周一さんのこの言葉は、その矢印を静かに自分の内に向けさせます。
「他人の心を知ることは何でもない。自分の心を見ればよい。」
つまり、人のことをあれこれ思うよりも、まず自分の心を見つめよということです。

真宗の教えでは、「煩悩具足の凡夫」としての自分を見つめることが大切にされています。
他人の欠点はすぐに見えても、自分の心のありようにはなかなか気づけない、その姿こそが、まさに私たちの実相であります。
だからこそ、阿弥陀さまは「そんなあなたをこそ、見捨てずに救う」と誓われました。

他人の心を測ることよりも、自分の心に映るはからい、ねたみ、いらだち、そのすべてを見つめるところに、仏の慈悲の光が届いてまいります。
他を責める心を離れ、自らの姿を聞かされていく。そこに、真宗の教えが生きて働いているのです。

装飾
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