
『子どもは大人になるけれど、大人は何になるのでしょうか。』
この言葉は、以前、真宗大谷派 大垣教区の掲示板法語ポスターに掲示されていた言葉です。
この問いを口にしたのは小学生で、何気ない日常の中で生まれた素朴な疑問が、そのまま言葉になりました。
子どもは、年を重ねれば自然と大人になります。
けれども、大人になった私たちは、そこから先、何になっていくのでしょうか。
私たちはつい、
「立派な人間にならなければ」
「もっとできる人にならなければ」
と思いながら日々を過ごしています。
真宗の教えに遇うとき、
そうした思いそのものを、あらためて問い返されることがあります。
親鸞聖人は、私たちを煩悩具足の凡夫と示されました。
迷いがなくなることも、思いどおりに生きられるようになることもない、
そのままの私の姿です。
大人になるとは、何でもできる人になることではなく、
できない自分、思いどおりにならない自分を、
教えを通して知らされていく歩みなのかもしれません。
年を重ね、教えに遇う中で、自分の力には限りがあること、
多くの支えの中で生かされていることに、少しずつ頷かされていく。
真宗の教えを通して見ると、
大人は「完成された人」になるのではなく、
気づかされ続ける人になっていくのだと思います。
阿弥陀さまのはたらきの中で、
できないまま、迷いのまま、
それでも見捨てられず、生かされている私。
子どもは大人になります。
そして大人は、わかっていない自分を、わからせてもらう歩みを、
続けていくのではないでしょうか。

