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『子どもは大人になるけれど、大人は何になるのでしょうか。』

この言葉は、以前、真宗大谷派 大垣教区の掲示板法語ポスターに掲示されていた言葉です。
この問いを口にしたのは小学生で、何気ない日常の中で生まれた素朴な疑問が、そのまま言葉になりました。

子どもは、年を重ねれば自然と大人になります。
けれども、大人になった私たちは、そこから先、何になっていくのでしょうか。

私たちはつい、
「立派な人間にならなければ」
「もっとできる人にならなければ」
と思いながら日々を過ごしています。

真宗の教えに遇うとき、
そうした思いそのものを、あらためて問い返されることがあります。
親鸞聖人は、私たちを煩悩具足の凡夫と示されました。
迷いがなくなることも、思いどおりに生きられるようになることもない、
そのままの私の姿です。

大人になるとは、何でもできる人になることではなく、
できない自分、思いどおりにならない自分を、
教えを通して知らされていく歩みなのかもしれません。

年を重ね、教えに遇う中で、自分の力には限りがあること、
多くの支えの中で生かされていることに、少しずつ頷かされていく。

真宗の教えを通して見ると、
大人は「完成された人」になるのではなく、
気づかされ続ける人になっていくのだと思います。
阿弥陀さまのはたらきの中で、
できないまま、迷いのまま、
それでも見捨てられず、生かされている私。

子どもは大人になります。
そして大人は、わかっていない自分を、わからせてもらう歩みを、
続けていくのではないでしょうか。

『どっこいしょ』六根清浄

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年末も近くなり、大掃除をされている方も多いことと思います。
「それをこっちに移動して」と言われ、重たいものを持ち上げるとき、思わず口に出るのが「どっこいしょ」という言葉です。何気なく、あまり意味も考えずに使っている一言ではないでしょうか。

この「どっこいしょ」という言葉、もともとは仏教と深い関わりがあると伝えられています。
もともと「どっこいしょ」は、山岳修行を行う修行者が山を登るときに唱えた「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」という言葉に由来するといわれています。

仏教では、私たちの目・耳・鼻・舌・身・心を「六根(ろっこん)」と呼びます。
六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つのはたらき、つまり、私たちが見る、聞く、感じる、考えるという一切の認識の根本を指します。修行者たちは、これらのはたらきを清らかにし、心を整え、苦しみや迷いから離れたいと願いながら、険しい山道を一歩一歩進んでいきました。その声が、時を経て「どっこいしょ」という日常の言葉になったと伝えられています。

私たちは、見るもの、聞くこと、感じること、考えることに振り回されながら、日々を生きています。
思いどおりにならない現実に迷い、腹を立て、落ち込み、また欲を起こす、そんな姿が、私たちのありのままの姿です。

親鸞聖人は、私たち人間を「煩悩具足の凡夫」と示されました。
清らかに生きたい、正しくありたいと願いながらも、迷い多く、弱く、思いどおりにならない身であることが、私たち自身に知らされていく、その事実を、親鸞聖人は深く見つめておられました。

浄土真宗の教えでは、そうした私たちが、努力を重ねて清らかな人間になってから救われるのではありません。
煩悩を抱えたままのこの身を、そのまま見捨てることなく、はたらき続けてくださる阿弥陀仏の願いの中に、すでに生かされていると聞かせていただきます。

大掃除の途中、重たいものを持ち上げるとき、「どっこいしょ」と声を出す。 それは、気合を入れるための言葉であると同時に、「今の自分」をそのまま引き受けて、立ち上がろうとする声のようにも聞こえてきます。
そして、その声の中に、「この身、このままでいいのだ」と、そっと背中を押されているような、仏さまの願いが込められているのかもしれません。

慌ただしい年の瀬だからこそ、何気ない一言に立ち止まり、
今ここに生かされている私自身に、耳を澄ませてみたいものです。

人の言葉や態度に心を乱されることは、私たちの日常にたびたびあります。
「あの人はどう思っているのだろう」「なぜあんなことを言うのだろう」気づけば、他人の心ばかりを探っている自分がいます。

しかし、毎田周一さんのこの言葉は、その矢印を静かに自分の内に向けさせます。
「他人の心を知ることは何でもない。自分の心を見ればよい。」
つまり、人のことをあれこれ思うよりも、まず自分の心を見つめよということです。

真宗の教えでは、「煩悩具足の凡夫」としての自分を見つめることが大切にされています。
他人の欠点はすぐに見えても、自分の心のありようにはなかなか気づけない、その姿こそが、まさに私たちの実相であります。
だからこそ、阿弥陀さまは「そんなあなたをこそ、見捨てずに救う」と誓われました。

他人の心を測ることよりも、自分の心に映るはからい、ねたみ、いらだち、そのすべてを見つめるところに、仏の慈悲の光が届いてまいります。
他を責める心を離れ、自らの姿を聞かされていく。そこに、真宗の教えが生きて働いているのです。

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