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人の言葉や態度に心を乱されることは、私たちの日常にたびたびあります。
「あの人はどう思っているのだろう」「なぜあんなことを言うのだろう」気づけば、他人の心ばかりを探っている自分がいます。

しかし、毎田周一さんのこの言葉は、その矢印を静かに自分の内に向けさせます。
「他人の心を知ることは何でもない。自分の心を見ればよい。」
つまり、人のことをあれこれ思うよりも、まず自分の心を見つめよということです。

真宗の教えでは、「煩悩具足の凡夫」としての自分を見つめることが大切にされています。
他人の欠点はすぐに見えても、自分の心のありようにはなかなか気づけない、その姿こそが、まさに私たちの実相であります。
だからこそ、阿弥陀さまは「そんなあなたをこそ、見捨てずに救う」と誓われました。

他人の心を測ることよりも、自分の心に映るはからい、ねたみ、いらだち、そのすべてを見つめるところに、仏の慈悲の光が届いてまいります。
他を責める心を離れ、自らの姿を聞かされていく。そこに、真宗の教えが生きて働いているのです。

『天命に安んじて人事を尽くす』 清沢満之

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明治時代の僧侶・清沢満之は、「天命に安んじて人事を尽くす」という言葉を残しました。同じ時代に生きた福沢諭吉が「人事を尽くして天命を待つ」と語ったのと、あたかも正反対に思える表現です。

福沢諭吉は「できる限り努力をして、結果は天にまかせる」という生き方を説きました。もちろん大切な心がけですが、私たちの人生は努力だけではどうにもならないことの連続です。病や事故、思いがけない出来事に翻弄され、「最善を尽くすから結果は問わない」とは、なかなか言えないのが私たちの姿ではないでしょうか。

それに対して清沢満之は、まず「天命に安んじる」ことを大切にしました。

天命に安んじるとは、思い通りにならない自分をそのまま認め、その自分を抱えてくださる大きなはたらきにまかせるということです。真宗ではこれを「他力」といいます。他力とは、誰かに代わってもらうことではなく、阿弥陀さまの大いなるはたらきに生かされている私の姿に気づくことです。

無数のご縁によって命をいただき、ここに生かされている。そのことに感謝し、安心のうえで精いっぱい努めていく。これが「天命に安んじて人事を尽くす」という生き方です。

つまりこの言葉は、こう言い換えられるでしょう。

「なるようにしかならない。しかし必ずなるべきように導かれていく。だから安心して、今を精いっぱい生きなさい。」

私たちは思いがけない出来事に直面すると、「こんなはずではなかった」「なぜ私だけが」と苦しむことを避けられません。けれどもこの言葉を心の片すみに置いておくことで、迷いや不安の中にも、少し前を向いて歩む力をいただけるのではないでしょうか。

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